旅の六(前編):1981年 「幸橋解体修理工事/平戸」
ひさしぶりの旅日記です。今回も、大塩八幡宮に引き続き文化財建造物保存技術協会在職中の仕事、「平戸幸橋修理工事」について書きたいと思います。
1981年
7月 長崎県平戸市 重要文化財「幸橋」解体修理工事赴任。今回の工事の幸橋は石造単アーチ橋、所謂、眼鏡橋です。江戸時代、元禄15年(1702)の築造から約300年、軟弱地盤の河口に架橋されており、川の洗掘などによる不同沈下により、アーチの変形やはらみ出しが生じ修理をすることになりました。いやー、参ったな橋の工事か、何にも解んねーや。でも、やらなければ!と、まず、部材の名称を覚えながら実測調査。石造アーチ橋はアーチ(迫石)、スパンドレル(側壁)、路面(敷石)、高欄(手摺)、そして基礎(アーチの下には当然基礎があります)によって構成されています。実測調査はまずアーチ、スパンドレル面と取付き部石垣に基準線(50cm間隔の升目)をレベル等使って描き石の形状等を実測します。レベルと野帳を持って測量の毎日が続く。
9月 路面部分の実測調査も側面と同様に基準線(50cm間隔の升目)を描き、こちらは平板測量で実測を行った。実測調査のデータを図面上に描いてみるとアーチ部分の歪みとスパンドレルのはらみ出し等が如実に表れました。当然、破損の状況は肉眼でも分かっていたし工事の目的でもあるのですが、図化したらそれは顕著で、確か東側が2~30cm本来の円弧より垂れていたと思います。
10月 取付き路の発掘調査。まずトレンチを路面中央とそれに直交して入れ、断面の実測調査を行い、その後、路面の舗装・路盤を取り除いて発掘調査の開始。シャベルなどで一層ずつ掘り下げ、ブロック分けした中に基準線の糸を張り巡らせ実測調査をし、また一層掘り実測調査。発掘調査に平行して、アーチ橋本体解体の為の支保工の取付けを行い、敷石から解体に着手。路面を掘り下げるにしたがって、いろんな物が出土された。公衆便所跡や水道管の残骸、陶器片等々。公衆便所跡の前はどうも花壇だったらしいこともわかりました。更に掘り進めると亀岡城幸橋御門の礎石も出土された。
12月 九州とは言え日本海側でしかも河口にある幸橋は寒い!前回の大塩八幡宮の雪といい、この平戸といい、冬の気侯には泣かされます。しかし、そんな辛さとは裏腹に、発掘調査と共に解体も順調に進み、アーチの下に一回り小さい円弧で取付けられた支保工により迫石をジャッキアップし要石(アーチの中央の石)から徐々に取り外していく。
1982年
1月 アーチ橋本体の解体完了により支保工も撤去し、取付き部石垣及び基礎の解体と基礎工事の為、止水壁をRC造の壁と土のう積で作り、取付き部石垣の解体を進めていると旧石垣が発見された。旧石垣には幸橋が木造橋だった時の桔木の埋め込み穴も発見。この発見により幸橋の変遷や木造橋だった頃の形態が推測できそう。
3月 基礎石の調査を行い。基礎石を取り外すと胴木が現れた。胴木は松材で井桁状に組み、それを固定するように松杭が打ち込まれ、その周辺や下部には石が詰め固められていました。おそらく胴木で基礎石を安定させ、アーチの荷重は、詰め固められた石が直接受けていたものと思われます。これで解体工事は、ほぼ完了。あとは調査結果に沿って復原していくことになります。
しかし、この後、私は家庭の事情により文化財保存協会を退職することになり、組積工事までは見ることはできませんでした。でも人生は不思議なモノ、幸橋の取り持つ縁か、今でも時折、平戸を訪れ、幸橋を見ることになります。その理由ですか?それはまた、今度、ということで!