旅の六(後編):1981年 「幸橋解体修理工事/平戸」
前回に続き『幸橋』後編。
今回は、アーチ橋、つまり眼鏡橋についての補足説明です。
幸橋のある平戸は九州の西北端に位置し、古くから大陸との交通の要所であり、オランダ商館など海外貿易港として知られています。寛文9年(1669)、その平戸港の奥の河口に、亀岡城と城下を結ぶ要所として木橋が架けられました。これによって往来が便利になったので幸橋と名づけられ、その後、長崎で盛んに造られていた石造アーチに架け替えられたのが、現在の幸橋です。
長崎では中島川に寛永11年(1634)長崎眼鏡橋が架けられてから元禄12年(1699)までの65年間に、実に20橋もの橋が架けられました。石橋架設には莫大な費用がかかり、藩でいくつもの橋を架けられるはずもなく、その殆んどが中国華僑やオランダや中国との貿易をしていた豪商によって架けられたようです。
幸橋は『長崎中島川架橋合戦』の後の元禄15年(1702)に架けられています。おそらく、長崎での技術が活かされたのでしょう、スパンの長い単アーチで、しかも地盤の悪い海に架けるなど、技術の進歩がうかがえます。
その後、石造アーチ橋は九州全体に広がり、熊本の霊台橋、通潤橋などの名橋を誕生させることになります。
1982年7月、長崎では大雨による大水害が発生し、日本の石橋発祥の地とも言える中島川石橋群は、長崎眼鏡橋、他13橋の全てが流されました。私が平戸を去って2~3ヶ月後のことでしたから、遠い地からこの大災害を不安な面持ちで見ていたのを覚えています。幸い平戸では大きな被害もなかったようです。
幸橋修理工事では、雨期は増水等を考慮して仮設足場や支保工の設置をさけた工程を組んでいました。災害のあった頃は基礎工事の支持杭、基礎盤の施工を行っていたと思います。その後、解体工事とは逆に、支保工の設置から組積工事、取り付け路の整備等を行い1983年末には完成したはずです。
私はと言えば、その後、当時修理工事事務所の事務員さんを時折訪ねて来ていた妻と知り合い、縁あって結婚となりました。したがって毎年のように平戸には行っています(これが前回書いた「幸橋のとりもつ縁」の内幕、というわけでした!)。
修理工事が終って数年後には、発掘調査で出土した幸橋御門跡に門が復原されました。
そして、このお正月も幸橋はどっしりと水辺にたたずみながら私達を迎えてくれました。