旅の百二十:「札幌の建築/北海道札幌市」
皆様、こんにちは。随分ご無沙汰いたしました。
先月、調査で北海道大学に行き、帰ってからはその図面作成など、多忙の毎日でした。今回はそんな訳で、札幌の建築をご紹介します。
北海道大学は皆様もご存じのようにクラーク博士が札幌農学校の初代教頭として招かれ、日本農業近代化モデルを構想してスタートしました。そして、その当時、建てられた建物が今でも残っています。今回はそれらの調査に伺いました。
その札幌農学校は明治9年に開校しました。クラーク博士は実践を中心とした農業教育を提唱し、学生の農業教育研究の「第一農場」と、畜産経営の実践としての「第二農場」を構想し、第二農場には博士が学長のマサチューセッツ農科大の家畜房を手本にした、模範家畜房(モデルバーン)と玉蜀黍(とうもろこし)庫(コーンバーン)の建設を計画しました。博士は平面図や完成予想図を作ったものの、1年間の休暇を利用しての来日のため、翌10年5月には日本を離れる事になりました。基本設計と指導は後任教頭のW・ホイラーが行う事となり、実施設計と現場監督は開拓使技師の安達喜幸が担当し、秋には完成したようです。明治12年には、種牛舎をモデルバーンに隣接して増築。その後、明治43年には東北帝国大学農科大学に昇格。それによって、第二農場を移転する事となり、現在の第二農場に建物は移築されました。大正7年に北海道帝国大学として独立し、現在の北海道大学農学部第二農場に至っています。
北海道大学農学部第二農場は、明治42年から45年にかけて造られ、模範家畜房と玉蜀黍庫、そして種牛舎は切り離して移築されました。模範家畜房は産室・追込所及び耕馬舎。
玉蜀黍庫は穀物庫に名称も変更したようです。その他には事務所、牧牛舎、秤量所、釜場、精乳所、収穫室及び脱ぷ室などが建てられました。
それでは、建物の説明をします。
産室・追込所及び耕馬舎は、これまでの説明にもあるように、明治10年に建てられた札幌農学校模範家畜房(モデルバーン)を、明治43年の移築時に現在の土地に合わせて改造して建てられました。桁行約30m・梁間約15mの大空間を5cmx25cmの板状の木材を使って、壁や梁を作る、日本で最初のツーバイフォー形式のバルーンフレーム構造の2階建て一部3階の大きな建物です。内部は1階が家畜の個室に仕切られ、2階は大空間となっており当初は馬車を乗り入れていたようです。外観は切妻造の鉄板葺き屋根の各面に換気塔を4本、棟中央部に1か所立てています。
外壁は1階が下見板張り、2階から上部が竪羽目板張り。
穀物庫も明治10年に建てられ、明治43年に移築された、バルーンフレーム構造の2階建て。収穫した玉蜀黍を貯蔵する施設のため、高床式倉庫で束石の上部は鼠返しが施されています。
種牛舎は明治12年に増築、明治43年に移築された、バルーンフレーム構造の2階建て。1階は個室に仕切られた牛舎で、2階は大空間になっていますが、階段はありません。恐らく、モデルバーンに隣接して建てられていたので、2階の出入り口に床を設けて行き来していたのではないかと思われます。
牧牛舎は明治42年に、当時の最新技術を採り入れて新築。
1階は西欧から導入した酪農スタイルの搾乳牛舎で、2階はクイーンポストトラス構造の大空間です。裏側には煉瓦造平屋建ての根菜貯蔵室と札幌軟石を使った石造サイロを隣接し、サイロは内径が約5m、高さが約10mあります。
収穫室及び脱ぷ室は明治44年に穀物庫に並べて建てられました。穀物庫の隣が収穫室、中央が脱ぷ室、左の石造の建物は動力室で大正2年に増設されたものです。収穫した穀類の脱穀や籾摺りを脱ぷ室で行い、収穫室で秤量や袋詰めなどを行ってから穀物庫へ運び入れたようです。
2階部分で穀物庫と繋がっている部分にはコンベヤーがありますが、これは後に付けられたようです。
秤量所は明治43年に建てられ、収穫物を馬車ごと大型の台秤で測り、空車時との差で計測していたため前後に両開き扉が付いています。
釜場も明治43年に建てられた石造の建物。竃などでジャガイモなどを煮込み貯蔵飼料にしていたようです。
精乳所は当初、木造だったようですが、移築時の明治44年に煉瓦造で新築しました。搾った牛乳を加工するための施設で、氷を入れて冷やす冷蔵室や機器や人の入室で雑菌が入らないように考えるなどされています。
最後に事務所。明治12年に第二農場派出所として建てられていた建物を、移築時の明治43年に再現する形で新築された管理事務所です。
このように、ここ北大には明治初期から厳しい環境の中、日本酪農の指導者たちが若者たちと共に過ごし、立派に巣立っていく姿を見守り続けてきた貴重な建物が残っています。
次回、もう一回、札幌の建築を紹介します。