旅の五十:「大悲願寺観音堂保存修理工事完成・その3」
前回、前々回に引き続き、大悲願寺観音堂保存修理工事完成までのレポート、その最終編です。
いよいよ、組立工事に入ります。まず、礎石の不陸調整の
ため、建物の揚げ屋を行います。
揚げ屋は、柱を鉄骨で挟んで固定し、鉄骨を油圧ジャッキで
揚げ、角材等を何段も重ねて受ける工法です。建物を揚げたら、礎石を一旦撤去します。礎石を外す際には、後で入れ間違うことのないように礎石に番付の番号を付け、位置・高さなどの実測を行ってから外します。そして地盤に60cm角・深さも60cmの穴を掘り、コンクリート製の基礎を作り、その上に改めて礎石を位置・高さなどを本来の位置に修正して据え付けます。基礎工事及び礎石の据え付けが終わったら、建物をゆっくり降ろします。その際、礎石の表面と柱の合わさる面がしっくり
馴染むように鑿で削り取って綿密な調整をします。今回の工事では、柱を降ろしたら、なんと、揚げる前は北側で西にずれて
いた歪みもなくなり、きっちり本来の位置に納まりました。長年変形したくせが付いていたため、歪みを直すのが大変かな、と心配していたのですが、あっけなかったと言うか「オッ?オー!」っていう感じの驚きでした。
建物が礎石の上にきちっと納まると、本格的な組立工事です。波状を呈していた軒廻りを整備し、化粧隅木も軒先が下がっていたので幾分上げました。
小屋組では復原設計を元に、切られた梁や束の継ぎ手など、繕いを行い、順次組立作業に入ります。並行して床組の組み
立ても行います。蟻害で使えない足固めを取り替えたり、補強材の取り付けなどを行い、足元を固めます。
ここでちょっと、観音堂で使われている材料について説明
します。柱は身舎が丸柱で16本、向拝柱が角で2本、合計18本。これは全てケヤキ材です。柱以外にも足固めや高欄、組み物などに若干ケヤキ材が使われていますが、他はほとんどが松材、赤松でした。床板、虹梁、軒廻り、小屋や床組の野物材などですが、一部の母屋、小屋束及び根太と壁板は杉材を
使用していました。
観音堂が建てられた当時は松がたくさんあったのでしょう。
目の詰んだ大きな松がふんだんに使われています。今回の工事では、同じ部材は同種の木材という原則から、当然赤松を
多く使います。しかし昨今は、松喰い虫の被害で多摩地区でも松材の流通はほとんど無く、岩手産のものを取り寄せました。
こうした貴重な松材を使用し、梁の継ぎ手には補強のための
ボルトを使いましたが、仕上げは従来と同じように釿(ちょうな)で、はつって仕上げました。
小屋組の組み立ては復原図にそって順調に進み、そして
いよいよ佳境の屋根下地。茅葺きの形に下地を造るため、
隅の丸みや軒先の反り、向拝屋根との取り合い部分では何度も原寸図を描き、その都度、大工さんに造ってもらっては直す作業を繰り返しました。そのように屋根のいたるとこの曲線には特に注意を払い、屋根の下地はほぼ完成。
大工さん達の木工事が大詰めになると、軒廻りや彫刻の塗り
工事に着手しました。軒廻りの化粧裏板の胡粉(ごふん)や
化粧垂木の弁柄(べんがら)を落とし、下地調整をしたあと胡粉や弁柄を塗ります。内部彫刻の彩色は現状の状態で保存するため、解体前に剥落止めの作業を行いましたが、外部彫刻の彩色は塗り替えることになりました。彩色の塗り替えには、まず現状の彩色の図柄と色遣いを記録し、彩色を落とします。その際、その下に残る当初の彩色の状況を確認し、当初の配色を調査しました。しかし、剥落がひどく配色や図柄がわからない
部分もありました。彩色を落とし終わると、下地を調整して胡粉を塗り、当初の図柄と同じように配色します。配色などが不明な部分は彫刻の題材から類推した配色とし、全体的に若干古色を帯びた色合いにしました。顔料は弁柄、本朱、鉛丹、墨などと、緑青や群青などは新岩顔料を使用しました。塗りは熟練の職人さんが丁寧に描き、実に見事な仕上がりとなりました。
屋根の銅板葺きは、身舎部分を平葺きで葺き上げ、向拝部分は瓦棒葺きで軒先の軒丸や唐草は銅板を叩き出しています。また、棟飾りの竹棟は銅板や銅管を工夫して造りました。
このような経過を経て、たくさんの関係者の卓越した技術に
よって、昨年末、無事工事が終了しました。その結果としては、大変よく出来上がったと思います。
関係者の皆様、大変お疲れさまでした。そして、ありがとう
ございました。
この大悲願寺、今月下旬(6月23日)に開通する圏央道あきる野
ICから約4Km の所にあります。皆様にも、伊達政宗が所望
したという見事な白萩の咲く秋にでも訪ねていただき、その復原した雄姿を見ていただければ幸いです。