旅の四十九:「大悲願寺観音堂保存修理工事完成・その2」
前回に引き続き、大悲願寺観音堂保存修理工事完成までのレポート続編
です。
さあ、解体工事が完了しました。ここで、その調査の中で得られた資料や
痕跡を元に復原設計を行います。
解体調査の結果、昭和27年(1952)に行われた小屋組・屋根の改造工事の
概要は以下の通りと推測できました。
○茅葺きから本瓦葺へ。
○寄棟造から宝形造/振れ隅(フレズミ)から真隅(シンズミ)へ。振れ隅とは屋根の隅木の位置を45度でなく角度を変え、妻面の屋根勾配を強くしたり弱くしたりして屋根の意匠上の変化をつける工法。真隅とは隅木を45度に入れる工法で、屋根の勾配は平(ヒラ)面も妻面も同じ勾配となります。大悲願寺観音堂は正方形の平面の建物ですから、寄棟造にする場合は、平と妻の勾配を
変えなければならず、おのずと振れ隅となっていたと考えられました。
○棟木を下げた。
○桁行の母屋を切断し、梁間の母屋を内側に寄せた。
○小屋梁を切断した。
このように寄棟造茅葺きを宝形造本瓦葺きに改造するため、小屋梁を
切断し、母屋などの位置を移動させて勾配を緩くし、また、小屋の形式を
変えるなど大胆な改造を行っていたことが判明しました。しかし、それ以外には解体された形跡はなく、建立当初のままだということも判りました。
■屋根の整備
復原の意義からすれば茅葺きとするのが理想ですが、今回の工事では防災及び維持管理の見地から茅葺きとはせず、茅葺き型銅板葺きとすることに
しました。
屋根の設計では、棟飾りの形式の復原に苦労しました。
茅は、はるか以前に撤去されているため、当然、何らかの痕跡が残ってる
わけもなく、大正12年に撮影された古写真があったのですが、詳細な判断はできませんでした。しかし、多摩地域でよく見られる竹棟であることは判明できました。そこで、多摩地域の茅葺き寺院の類例調査を行い、実在する10数例の文化財の類例調査を元に、修理委員会の指導を得たところ、青梅市の重要文化財観音寺本堂の棟形式が一番合ってると判断され、観音寺本堂の
棟形式に倣って復原図を作成しました。
また、向拝の軒唐破風屋根は文政10年(1827)に取り付けられたものと解体
調査において判明しました。だが、観音堂の特徴と言うべき唐破風と内外を
飾る精緻な彫刻とその彩色は、本体部建立後、文政7年~10年、さらに天保5年~13年にかけて順次整備されたことが調査により明らかになり、
したがって、向拝や彫刻が取り付いた時点が観音堂の完成と考え、向拝
部分は残した状態で復原設計を行いました。
■小屋組の整備
小屋組の整備では二通りの案が考えられました。
1) 茅葺き時代の小屋組を復原した上で、その上に茅葺き型銅板葺きの
下地を造る方法。
2) 小屋組の復原は行わず(現状の本瓦葺きに改造された際に切断された小屋梁などはそのままとし)母屋や束などを取り替え、いきなり茅葺き型銅板
葺きの下地を造る方法。
今回の工事では、小屋組を復原しておくことで、将来、本来の茅葺きにいつでも復原することができる可能性を残す意味で、1)の小屋組を復原する方法で設計が進められました。
小屋組の設計では、切断された小屋梁等の継ぎ手方法について、母屋の位置や仕口を痕跡と屋根勾配で調整しながら何度も検討を行い進めました。
茅葺きの下地に使う叉首(サス)の位置や取り付け方法も母屋などの痕跡を
入念に調査して解明し設計に反映させました。このようにして復原した
小屋組は架構図をご覧ください。
■格子戸の整備
高欄擬宝珠に昭和49年(1974)の銘があり、縁廻りの改造が行われていました。この時に身舎側廻りの格子戸の取り替えが行われたことも判明しました。
解体工事中、山門から観音堂の格子戸と思しき建具を発見し、調査したところ、まさしく観音堂の格子戸と判明。格子部分には墨塗りを、腰板は弁柄を塗った重厚な建具でした。傷みも激しかったのですが、修理を施せば再び使えると判断し、格子戸の整備設計を行いました。縁廻りの改造は、ほぼ当初に倣った形で行われており、それほど傷みもひどくなかったため、縁板を取り替える程度にとどめ、復原設計は行いませんでした。
■床組の整備
礎石の不同沈下により、床組の緩みや、雨漏りによる腐れ、蟻害が認められました。礎石は不陸調整のため一旦撤去し基礎工事を行わなければならず、したがって建物の揚げ屋を行うことになり、揚げ屋の設計等を行いました。
このように復原・組立工事の設計を行い、組立工事請負締結後、いよいよ第2期工事に入ります。
次回、組立工事、最終編です。おたのしみに!
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