旅の四十八:「大悲願寺観音堂保存修理工事完成・その1」
今回は、昨年の暮れに保存修理工事が終了し、過日、報告書の刊行、
また、落慶法要も盛大に行われた、あきる野市指定文化財「大悲願寺観音堂保存修理工事」について紹介したいと思います。
大悲願寺は東京都あきる野市に所在し、JR武蔵五日市線の武蔵増戸駅と
武蔵五日市駅のほぼ中間の沿線の北側に位置しています。
沿革としては聖徳太子が全国行脚の際、この地に草堂を建てたのが起源
という伝承がありますが、これはさだかではなく、寺伝の記録から、建久2年(1191)京都醍醐寺三宝院の僧を開山として開創されたのが始まりとされて
います。
かつては寺領も広く、32ケ寺もの末寺を擁していましたが、明治初期の廃仏毀釈により衰退し、明治29年にそれまで属していた真言宗醍醐寺派から、
奈良長谷寺の直末寺となり、現在は真言宗豊山派に属しています。
本堂前の境内には伊達政宗が所望し寄進した白萩が広がり、秋の花咲く頃の景観は、それは見事です。ちなみに中曽根元首相も日の出山荘に来た折に
良く訪ねられ、箱根東光庵再建の際、一筆したため、この萩を所望されたようです。
観音堂は創建時の建久2年に初建立し、その後、数度にわたる修造再建を
重ね寛政6年(1794)現観音堂を建立しました。また、観音堂は無畏閣と言い、慈悲の力で心の畏れ(おそれ・不安・怒り等々)を取り払って頂けるといわれる観音様を勧請したお堂として古くから親しまれてきました。
観音堂に安置されている仏像は重要文化財「木造伝阿弥陀如来及び脇侍千手観世音菩薩及び勢至菩薩坐像」で、平安末期から鎌倉期にかけての作。
京都仏師の作風を伝えており、特に中央の阿弥陀如来座像は最も古く、
よく平安期の特色を示しており、関東屈指の秀作です。この観音堂は近年、
雨漏りがひどく、老朽化が著しいことから、これらの貴重な仏像を納める収蔵施設という性格上、文化庁・東京都並びにあきる野市の補助を受け、保存
修理工事を行うことになりました。
私が初めて大悲願寺を訪ねたのは、平成17年1月の春めいた暖かい日
でした。五日市街道から細い道を上がって行くと杉林の中に、まず、楼門が
目に入りました。その奥に本瓦葺きの御堂が。近づいてお参りをし、目を上げてみると、そこには見事な彫刻に飾られた禅宗様の大きな三間堂。それが
観音堂でした。観音堂の東には大きな本堂と並んで重厚な庫裏客殿が。
さすが古刹、立派なお寺だなとの印象でした。
前置きはこの位にして、本題に入ります。
観音堂は江戸時代後期の寛政6年(1794)に再建した、桁行3間、梁間3間、向拝1間の大型三間堂です。現状は屋根を宝形造本瓦葺きとし、随所に
瓦ずれや欠落がみられ、雨漏りによる腐朽や床などの緩み、礎石の不同沈下などが認められました。
工事は半解体修理工事で、全体を2期に分けて、第1期は仮設・解体工事
とし、第2期を組立工事としました。
1期工事の発注を平成17年2月に行い、仮設は素屋根・作業足場の組立て、プレハブの設置等。素屋根の完成と同時に、解体工事にとりかかりました。
まず屋根の瓦の状態を調査し、それが終了したら、すぐに解体作業に入り
ました。瓦は一枚一枚丁寧にはずし保管。瓦の解体作業時はもの凄いほこりでした。その後、野地板、野垂木など、同様の手順で作業を繰り返します。
小屋組の段階では、当初茅葺きだった屋根を瓦葺きに改造した際、小屋梁
などを切断しており、その復原調査や破損調査などを入念に行い、並行して
番付を打ち、調査と番付作業が終了した部材から順次取り外し、格納しました。
解体工事が完了したのが平成17年7月、汗とほこりにまみれた半年間
でした。
解体工事の調査のなかで判明したこと。
○棟木の墨書に寛政6年上棟の記載があり、寛政6年の建立が証明された。
○向拝の小屋裏より発見された文政10年と明治23年の2枚の棟札により、
文政10年(1827)に向拝部分が取り付けられ、明治23年(1890)に向拝の修繕が行われた。
○昭和27年(1952)に茅葺きから本瓦葺きに改造。その際、小屋梁や小屋束を切断し、寄棟造りから宝形造りに改変している。
○高欄擬宝珠に昭和49年(1974)の銘があり、縁廻りの改造が行われた。
これらの調査結果を元に復原の設計を行い、工事は第2期の組立工事へと進みます。
この続きは次回のお楽しみに!