旅の七十七:「東口本宮冨士浅間神社/小山町」
富士山にはいくつもの登山道がありますが、その東側の須走口(すばしり
ぐち)登山道の起点に鎮座しているのが、東口本宮冨士浅間神社です。
一般的には、須走口にあるので須走浅間神社と呼ばれているようです。
東口本宮冨士浅間神社を訪ねたのは、約二年半前の平成19年の4月頃
でした。静岡県小山町指定文化財である社殿の修理工事のための調査
だったのですが、屋根葺き替え・塗装及び部分修理工事は、足かけ3年の、
この9月一杯で完了する予定でしたので、もう完成した頃だと思います。
リニューアルされた綺麗な社殿が見られる頃かも知れません。
さて、その東口本宮冨士浅間神社の起源は、延暦21年(802年)の富士山東麓の噴火にさかのぼります。この時、須走に斎場を設けて鎮火の祈願を行い、
それにより噴火が収まったため、大同2年(807年)に鎮火祭の跡地に社殿を
造営したと伝えられています。主祭神は木花開耶姫命、さらに大己貴命(おおなむちのみこと/別名:大国主命)と彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)を共に祀っています。
先日来、修理工事を行っていた社殿は拝殿・幣殿・本殿の三つの建物を一棟としたもので、構造形式は、拝殿、桁行五間・梁間二間、入母屋造銅板葺き、向拝一間、正面千鳥破風付。幣殿、桁行三間・梁間二間、両下造銅板葺き。本殿、三間社流造銅板葺きです。
この社殿の建立年代ですが、記録によると「江戸前期の寛文2年(1662)に
沼津城主大久保氏、小田原藩主稲葉氏等の援助によって前の社殿の修復が行われ、その後、宝永4年(1707)に起きた富士山の噴火、いわゆる『宝永
大噴火』で社殿が被害を受けたので、幕府より勧財の許可を得て、享保3年(1718)に修造を行った」とあることから、社殿はこの享保3年(江戸後期頃)に再建されたものと推測できます。
また、随身門の楼門も宝永大噴火で大破し、幕府への再建願いが出されて
おり、こちらは、明和4年(1767)に再建されたようです。楼門の構造形式は、
三間一戸楼門、茅葺型入母屋造、銅板葺き。軒廻りは二軒繁垂木に組物は出組で、腰組も二手先としています。
額に不二山と書かれた鳥居をくぐると、まっすぐに延びた参道は掃き清め
られており、なんとも清々しい神社です。今なら社殿も塗り替えられて一層
清々しさを感じられることでしょう。折をみて訪ねて頂けたらと思います。