旅の七十八:「北口本宮冨士浅間神社/富士吉田市」
秋はいろんな行事が多く、また、仕事の方も住宅関係は不況風が吹き荒れていますが、文化財の調査が相次いで入り各地を飛び回っており、
更新が遅れてしまいました。申し訳ありません。
今回も引き続き浅間神社の紹介をしたいと思います。今回は、この旅日記
でも紹介した吉田口登山道禊所や外川家との関連の深い、北口本宮冨士
浅間神社です。
北口本宮冨士浅間神社は山梨県富士吉田市上吉田に位置し、
富士登山道の吉田口の起点になります。日本武尊が東方遠征の折に、
相模の足柄から甲斐の酒折宮に行く途中、上吉田の大塚丘から富士山を
眺め、富士山には北側より登拝するのが良いとして、鳥居と祠を建てたのが
始まりとされ、その後、延暦7年(788)に現在地に社殿が造営されたと
伝えられています。
戦国時代には武田信玄が上杉謙信との川中島の決戦を前に、戦勝祈願のため東宮本殿を寄進したとも云われ、また、富士講指導者の村上光清が
私財を投じて、随心門や拝殿などを建立し、荒廃していた神社を復興させる
大事業をおこない、その後の富士講の最盛期を経て、現在に至っているよう
です。
実は私と北口浅間との係わりも古く、私が文化財建造物保存技術協会に
入った入社1年目に、本殿の小さな修理工事の調査で訪れています。
その時には、御師の小佐野家住宅の屋根の修理調査も行っており、富士吉田との付き合いも、もう30年以上になるんですね。
それでは建物の紹介をします。まず、本殿。現在、修理工事中で、屋根葺き替え・塗装・部分修理を今年の1月より12月末の工期で行っています。
一間社入母屋造、向拝唐破風、瓦棒銅板葺きの建物は、江戸初期の
元和元年(1615)、谷村城主鳥居土佐守成次の建立によるものです。
東宮本殿。先ほども説明したように、武田信玄の造営とされるもので、
室町時代の永禄4年(1561)に再建されました。一間社流れ造、桧皮葺きで、
彫刻や様式などに室町時代の手法が現れた、北口浅間の中で最も古い建物です。
次に西宮本殿。桃山時代の文禄3年(1594)に建立された一間社流れ造、
桧皮葺きの、東宮本殿と同規模で、造りも良く似た室町風建築様式の建物
です。恐らく東宮本殿を手本として造られたのではないかと思われます。
そして随心門・拝殿・神楽殿・水屋は江戸中期の享保18年(1733)に
村上光清が復興させた建物です。
杉や桧の大木が生い茂り、富士の清流のせせらぎの聞こえる境内に、
たくさんの石灯篭が立ち並ぶ様は、富士講の隆盛のさまを物語っています。
富士山周辺の浅間神社の紹介は今回を持って終了としたいと思います。
富士吉田はもう既にかなり寒くなっていますが、雪化粧した富士山を見に
行った折にでも立ち寄って頂けたらと思います。