旅の五(上の巻):1980年 「大塩八幡宮拝殿解体修理工事/武生」
今回は私が(財)文化財建造物保存技術協会に在職中、はじめて文化財の解体修理に携わった当時を思い出しながら、日記で「ドキュメント」風に綴ってみたいと思います。
1月○日
福井県武生市 重要文化財大塩八幡宮拝殿解体修理工事赴任。 既に素屋根(修復するために拝殿の上にさらに新しくかけた工事用の屋根)がかかっていて、桟瓦の撤去に伴う実測調査が最初の仕事。建立当初の姿を復元するために、実測しながら建立から現在までの、屋根や軒廻りの形態の変遷等を探る。屋根瓦には、軒唐草瓦に丸の付いたものと、丸無し2種類、の3種類があり、丸の付いたのが古そうだった。いずれも越前瓦か?
1月○日
野地板割付実測後、野地板解体。隅木等に墨書発見!「文化六年巳六月十七日」と「明治三十一年九月五日・・・」これにより屋根を瓦葺きに変えたのが文化6年(1809)で明治31年(1898)に屋根の修理が行われた事が解った。
2月○日
小屋組から「昭和四年屋根葺き替え」の木札発見。軒唐草瓦の丸付きが文化六年、丸無しの一種類(唐草模様の細かい)が明治、丸無しのもう一種類(唐草模様の大きい)が昭和と判明。明治31年(1898)の後、昭和4年(1929)にも修理が行われていた。
2月○日
小屋組解体。当初材の旧側桁、旧垂木、旧茅負など数点の転用材が発見された。部材を綿密に実測し、軒廻りや屋根の形態を復原する資料づくりに取り組む。
2月○日
軸部の痕跡調査。中古の鴨居のあたりや、扉が付けられてた穴や板壁の溝や間仕切りのほぞ穴を実測調査。平面構成の変遷は・・・? まだまだわからないことだらけ。
3月○日
解体調査と並行して復原図作成。柱の板溝は仕事が汚いので後物。割拝殿の土間部分も大引きのほぞ穴や床跡などから全面床張りの吹き放しが確実。軒廻りも側桁、垂木、木舞、化粧裏板、茅負で勾配や垂木割は判明できたが軒の出は?屋根の形態は?類似した建築物の様式を調査する必要あり。
3月○日
類似調査のため出張。福島県熊野神社長床。やはり大塩八幡宮拝殿もここと同じように吹き放しの拝殿だったんだろうな!と判断。ならば屋根も同じように寄棟?
4月○日
解体完了。地盤面をトレンチによる発掘調査。焼土層などは無く前身建物の遺跡も認められなかったが、雨落葛石の一部が埋没されているのを発見!これにより軒の出が解明された。後は屋根だ!
5月○日
基礎工事が進められる中、横たわった柱や梁等の痕跡の実測調査。部材を撫でながら当たりをチョークでしるし、変遷や全て変えられた屋根の形態をさかのぼる毎日。
6月○日
文化庁の現状変更会議まで後わずか、調査資料などをもとに協議を重ね、寄棟の屋根で復原図を作成。うん、なかなか良い感じ!
7月○日
なんと、ここへ来て大どんでん返し!享保七年(1722)頃の絵図が宮司の家の倉より発見された!そこには当時の拝殿の絵が描かれており、屋根は入母屋、妻飾りが格子で吹き放しとなっていた。類似調査などで寄棟の屋根に復原する予定が、一転、入母屋に変更することに。大変だけれど、痕跡調査で吹き放しと考えられていたことの裏づけは取れた。 間近に迫った軸部の組立。もう時間の猶予はない!これから大忙し、どうなる事か? 次回へつづく!