旅の百十:「旧弘道館/水戸市」
このところ、文化財や耐震の調査で遠くまで出掛けることが
多く、大分ご無沙汰をしてしまいました。
そんな訳で、今回は過日、昨年の東日本大震災で被害に
あった、水戸市の旧弘道館を調査で訪ねましたので、
ご紹介したいと思います。
東日本大震災の発生から早いもので1年3ヵ月あまりが経ち
ましたが、水戸市内でも地震の爪痕は大きく、いまだにいたる所ブルーシートが掛けられ、道路の歩道も液状化による陥没が見られるなど、復旧にはまだまだ時間がかかりそうだなと
思いました。今回訪ねた旧弘道館には3年程前にも来ているのですが、その時と様相はかなり違っていました。以前は観光で見学されている方も多く、室内にも入ることができ、江戸時代の
重厚感のある書院造りを目の当たりにすることが
できましたが、現在は、壁が崩れ落ち、当然、内部には立ち
入る事はできず、通常は雨戸で閉ざされている様子です。
今回は調査の為、雨戸は開けて頂きました。
旧弘道館は江戸時代後期の天保12年(1841)に水戸藩第9代
藩主徳川斉昭公により創設された藩校で、文武両道を教育
方針とし、剣道や馬術などの武術や、人文科学・社会科学や
医学・薬学、また天文学の自然科学など、幅広い学問を
教育研究とした、いわゆる総合大学みたいなものだった
ようです。第15代将軍となった徳川慶喜公も、父斉昭公の
厳しい教育方針で5歳の時から弘道館において英才教育を
受け、慶応3年(1867年)の大政奉還の後、謹慎したのが
至善堂(しぜんどう)です。その後、1868年に水戸藩内の保守派(諸生党)と改革派(天狗党)が争った『弘道館の戦い』で文館・武館・医学館などを焼失しましたが、焼失を免れた現在の
建物は、水戸県庁そして茨城県庁として使われ、現在に至っています。
旧弘道館の平面構成は、正庁と至善堂からなり、正庁は、
現代の管理棟にあたり、文武の試験や儀式を行う場所で、
正席(一の間・24畳)、二の間(15畳)、三の間(12畳)、玄関の間(24畳)などと、その周囲を畳廊下が巡る構成です。
至善堂は、藩主の休息や藩主の子供達が勉強するための
場所で、正庁から2間幅の広い畳廊下の奥に位置し、御座の間(12.5畳)、二の間(10畳)、三の間(17.5畳)、四の間(10畳)、
溜の間(12.5畳)が連なり、御座の間への周囲を畳廊下が巡っている大きな書院造りの建物です。
今後、耐震補強設計が行われ、修復工事へと進んで行くと
思います。いつの日か修復工事が終わったあかつきには、
春にでも、梅の花を見ながら訪ねて頂ければ幸いです。