旅の三十八:「棟梁との建築行脚道中記/滋賀」
夏休みもようやく終わり、日毎に秋めき、少しずつ過ごしやすくなってきましたが、皆様、如何お過ごしでしょうか?
先日、私が設計監理を担当している、地元・上野原の保福寺本堂新築工事の施工業者の棟梁と、工事を進めて行く上での意思の疎通と細部の意匠や納まりを再確認するため、滋賀と京都のお寺を見学に行ってきました。今回はその時に訪ねた幾つかの建物を紹介いたします。
まず、その前に保福寺本堂新築工事について簡単に説明します。現在の本堂は江戸時代中期の宝暦に建てられた、桁行十一間、梁間八間、寄棟造り鉄板瓦棒葺き(元は茅葺きだと思います)の建物です。近年老朽化により痛みが酷く、また、前本堂焼失直後の建立で、財政難の中、建てられたからか、用材も細く、耐震的にも極めて危険性が高いため、再建することになりました。
それでは本題に入りましょう。まず最初に訪ねたのが西明寺。このお寺は以前にもこの旅日記で紹介していますので詳しいことは「旅の二十」をご覧ください。西明寺は天台宗の和様の建物で、保福寺は曹洞宗で禅宗様となりますので、細部の様式の違いはあるのですが、基本は和様も禅宗様も変わりません。日本建築の技術や意匠の最高峰と言われている中世の建築の調和のとれた美しさを、棟梁とお互いに再認識しました。
次は園城寺。こちらも以前に紹介していますので「旅の十八」をご覧ください。ただ、今回見学する予定だった金堂は一昨年の台風の被害による修理工事中で全容は見られませんでした。しかし、手挟み(タバサミ:向拝柱上の斗ときょうの内側に付く彫刻を施した装飾材)のデザインや斗ときょうなど細部意匠や納まりを中心に見てきました。
続いて比叡山延暦寺、皆さんご存知の天台発祥地です。延暦4年(785)最澄19歳の時に初めて比叡山に入り草庵を結んで修行を行い、その後、内供奉十禅師に加えられた最澄は、延暦22年入唐の許可を得て渡唐し、円・密・禅・戒の4宗を受けて、天台法華宗を提唱、桓武天皇の勅願で比叡山の大伽藍が出来たのがこの延暦寺です。その後、比叡山からは法然・一遍・栄西・親鸞・道元・日蓮などの高僧を輩出し、それぞれ浄土宗・時宗・臨済宗・浄土真宗・曹洞宗・日蓮宗などを開宗しています。
比叡山は根本中堂のある中心的な東塔と、釈迦堂のある西塔、慈覚大師が開いたと言われる横川により構成されています。私たちは釈迦堂を見るため西塔を訪ねました。釈迦堂は西塔の中堂(本堂)で正式には天法輪堂と言い、桁行七間、梁間七間、入母屋造り、とち葺き形銅板葺きの建物です。貞和3年(1347)の室町時代初期に建てられた園城寺の弥勒堂を、織田信長の比叡山焼き討ち後、豊臣秀吉の命で文禄4年(1595年)に、ここに移築した、天台様式の典型な堂々とした風格のある美堂で、延暦寺に現存する建物では最古です。とち葺きとは、こけら(こけら)葺きと同様に椹(さわら)板を用いますが、こけら葺きは厚さ3mm の割り板を使用するのに対し、とち葺きは3倍の厚さ9mmの割り板を使って葺き込みます。釈迦堂では、豪壮さと柔らかさを兼ね備えた容姿が、どんな構造やディテールから成立しているのかを探り、また、保福寺でも採り入れた出組(斗ときょう)意匠と納まりなどを入念に見させて頂きました。
一日目は以上の三ヶ寺で終了しました。全て天台の寺院で和様の建物ですが、いい建物はどこか共通しています。それが禅宗様であっても、美意識は共通です。美しい建物を見てきた興奮からか、その夜は棟梁と差しつ差されつ酒を酌み交わし、建築談義で夜は更けました。
二日目は、次回の報告としたいと思います。