旅の五十三:「身延山とその周辺の文化財」
残暑お見舞い申し上げます!
立秋を過ぎても、毎日、暑い日が続きますが、如何お過ごしでしょうか?
先日、上野原建設組合青年部の主催で身延山久遠寺の五重塔再建の現場と
その周辺のいくつかの文化財を見て研修してきました。今回はそれらを紹介したいと思います。
本題の久遠寺五重塔に入る前に、
現在、修理工事が行われている南アルプス市の重要文化財「安藤家住宅」を紹介します。
安藤家は旧甲西町西南湖に位置し、先祖はかつて武田家の
家臣で、小尾姓を名乗っていましたが、武田家滅亡後、母方の安藤の姓を名乗り、名主を務めた豪農です。
敷地内には主屋、表門、南蔵、北蔵、文庫蔵、茶室などが残されています。
昭和61年に解体修理が行われたものの、茅葺き屋根の痛みが激しくなったため、
今回、茅の葺き替え修理が行われています。
以前はかまどや囲炉裏で火を焚き、煙で茅をいぶすなどの処置で、かなり長持ちをしていたのですが、
現在は約2~30年で葺き替えが必要と言われています。
また、今では茅葺き屋根も少なくなり、職人さんも減っているのですが、
先日、若手の茅葺き職人さん達と飲む機会があり、いろいろ話してみたところ、
一時期よりは職人さんも増えてきているようで、その激励も込めて訪ねてみました。
写真の、表門の見事な仕上がり、いかがですか?
次に、身延町の大野山本遠寺本堂修理工事を訪ねました。
本遠寺は慶長13年(1608)徳川家康の側室お萬の方の帰依を受けて日遠上人が開山創建しました。
お萬様の力添えから紀州徳川家の援助を得て、長男・紀州
大納言頼宣公、次男・水戸中納言頼房公らによって一大堂塔伽藍が寄進され、三代将軍家光公も正保3年(1646)、
寺領260石を給付し、別格本山の待遇を得て発展しました。
建設に当たっては用材や大工などの職人も紀州から連れて
来たと言われています。一昨年前に訪ねた時は小屋組の
組立中だったのですが、確かにその技法など、甲州のものとは明らかに違い、
紀州の古式を踏襲した伝統的な技法が使われていたのが確認できるものでした。
現在は屋根を修理前の桟瓦葺きから桧皮葺きに復原し、流麗な屋根の葺き上がりは見事でした。
次に本題の身延山久遠寺五重塔。
久遠寺の五重塔は、初代が江戸時代初期の元和5年(1619)に建てられましたが、
文政12年(1829)に出火し、境内28棟を焼失しました。
その後、万延元年(1860)に二代目の五重塔が再建されましたが、
15年後の明治8年(1875)全山を巻き込んだ大火により焼失。
今回、再建されている五重塔は三代目となりますが、これは初代五重塔の復元という形で進められています。
したがって元和5年の総高さ21間(38.2m)の塔で、
材料・工法・意匠など当時の姿を再現するべくして工事が行われています。
工事は昨年の平成18年3月に地鎮祭が行われ、木材製材
加工、杭及び基礎工事を昨年中に終わり、今年の3~4月に
素屋根工事を行い、1層軸部の組立、心柱立柱式が7月に終わったばかりでの見学でした。
今後2層から5層までの組立を来年2月頃まで行い、3月には上棟、10月完成といったスケジュールのようです。
また、完成までには訪ねてみたいなと思っております。
その晩は身延山内の智寂坊に泊まり、翌日は赤沢宿などを訪ねました。
赤沢宿は身延山と修験霊山七面山を結ぶ参道の途中にある宿場です。
かつては信仰者の集まりである講が定宿とした講中宿として栄えました。
しかし、繁栄したのは明治初期頃までで、かつての賑わいとはほど遠く、
静寂に満ちて、今ではただ1件、江戸屋さんが営業してるだけです。
この日も七面山に登る声の南無妙法蓮華経がこだまして聞こえてきましたが、
赤沢に泊って登る人は少なく、ほとんどが身延山などに泊まり、車で移動して登ってるようです。
そんな山狭いの宿場ですが、
観光地化していないだけに、昔ながらの建物が残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。
風情がありますよね!
そして、その後で訪ねたのが、西湖いやしの里根場。
西湖湖畔の集落にはかつて多くの兜造りの茅葺き民家が建ち並んでいましたが、
昭和41年台風の豪雨により発生した
土石流によって流され壊滅的な被害を受けました。それから
40年余りが経ち、根場は西湖いやしの里として再現され、
陶芸や紙漉き絹織物など伝統工芸の体験や販売などを行っていました。
駆け足で紹介してきましたが、
皆さんも、夏休みのひと時これらの清浄な山あいの地を訪ねてみては如何でしょう?