旅の八十三:「身延山久遠寺(その1) 身延町」
今回は、今年の正月から、調査をさせていただいた、日蓮宗総本山身延山
久遠寺の山内にある数々の建物をご紹介したいと思います。
身延山内には沢山の建物が存在しているのですが、それらの建物の状況を
詳しく調べた事はこれまでになく、今回、私共が依頼を受け、初めて調査を
させていただきました。その内容を公表するわけには行きませんが、
大まかな建物の紹介をさせて頂きたいと思います。
皆さんもご存じかも知れませんが、まず、身延山久遠寺の歴史から
説明します。
日蓮聖人は鎌倉時代の文永11年(1274)に佐渡の流刑を終え鎌倉に戻り、現在の身延町波木井の波木井実長に招かれ、身延山の西谷に草庵を構え、弘安4年(1281)に十間四面の大坊を整備し「身延山妙法華院久遠寺」と
名付けたのが、久遠寺の始まりとされています。室町時代の文明7年(1475)には、十一世法主日朝上人が伽藍を西谷から現在地に移して整備し、
武田家などの御加護を受けられました。門前町なども、この頃、形成された
ようです。江戸時代には、徳川家など諸大名の日蓮宗への帰依により発展し、壮大な伽藍を形成、最盛期を迎えました。しかし、明治8年の大火により、
伽藍のほとんどを焼失。その後、徐々に再建を行い、現在に至っているよう
です。
それでは、建物の紹介を行います。身延のしょうにん通り商店街方面から
身延山に向かうと、まず、総門を潜ります。
総門:江戸時代前期の寛文5年(1665)に建てられた一間高麗門で、切妻造、桟瓦葺。門には「開会関」と書かれた大きな額が掲げれられており、ここから
身延山の聖域となります。
総門を過ぎると、門前町商店街が参道の両側に建ち並び、身延山を訪れた
人達で賑わっています。ここを過ぎると、右手に三門が現れます。
三門:明治40年に再建された、五間三戸二階二重門です。組物三手先詰組、二軒初重繁垂木二重扇垂木、入母屋造銅瓦葺で、京都の知恩院、南禅寺と共に日本三大門の一つと言われている大きな門です。
三門を通ると、その先に、急な石段が見えます。これが菩提梯で、石段の数287段、高さは104mもあります。石段を上り詰めると、五重塔と大鐘楼の間に出て、広い境内の正面には本堂が鎮座しています。本堂の右側には祖師堂・報恩閣・御真骨堂・仏殿・水鳴楼・客殿と続きます。そして、庭を挟んだ
南側は、大鐘楼・開基堂・釈迦堂納碑堂・休憩所などが建ち並び、時鐘・
甘露門へとつながります。
五重塔:三代目の五重塔で平成20年に竣工しました。江戸時代の元和5年に建立された初代の塔を復元する形で進められ、かつて私が勤めていた公益
財団法人文化財建造物保存技術協会が設計を行い、大成建設株式会社が
施工しました。工事中、何度か見学をさせて頂きましたので、写真を掲載
します。三間五重塔、瓦棒銅板葺で、屋根高27.787m、総高38.181m
です。
本堂:昭和60年(1985)に再建された建物で、主要構造は確かSRCだったと思います。間口32m、奥行51mで、地下に宝物館を備えた大きな建物です。
祖師堂:伽藍焼失後、明治14年に江戸から移築した建物で、現本堂が再建
されるまで、本堂として使われていました。
御真骨堂及び拝殿:明治14年に再建。日蓮聖人の御遺骨を安置した、土蔵造八角堂の本瓦葺。南下側に入母屋造、瓦棒銅板葺の拝殿を設けて
あります。
仏殿:昭和6年(1931)に日蓮聖人六百五十遠忌を記念して建てられました。
客殿:明治18年に建立。入母屋造、瓦棒銅板葺の大建築で、平側に
唐破風の大玄関と千鳥破風の玄関を設けており、大玄関は法主と貴賓のみに使われているようです。
大鐘楼:明治15年(1822)に再建。四方転柱に詰組の組物を載せた、
入母屋造、本瓦葺の建物。
開基堂:室町時代の文明4年(1472)に、日徳上人勧請により建立したと
される、多宝塔形式の二重塔。初重は土蔵造で、身延山開基の波木井実長像を安置しています。以前は別の場所にあり、明治の大火を免れています。
時鐘:一間袴腰付鐘楼。入母屋造桟瓦葺の建物で、昭和27年に焼失後、
再建されています。
甘露門:一間高麗門、切妻造本瓦葺。現在はこのように高麗門ですが、元は冠木門だったようです。
久遠寺の中心的な伽藍の建物は、この他に、寺務所の法喜堂や、旧書院
などがありますが、今回はここまでとさせて頂きます。続きは次回、
日蓮聖人が草庵を結んだ御草庵跡周辺の建物や身延山山頂の奥の院、
奥の院へ登る参道にある建物のご紹介をしたいと思います。