旅の五(中の巻):1980年 「大塩八幡宮拝殿解体修理工事/武生」
7月7日
復原の検討が続く中、軸部の組立を開始する立柱祭を開催。立柱祭はいわゆる建前の儀式。(今では柱を建てるのと棟を上げるのが殆んど同じ日になり、建前と上棟が同じ儀式になっています。)直井棟梁をはじめ工匠達の厳かで古式な儀式に身も引き締まり頭が一時スーッと落着いた。
7月○日
立柱祭が終ってもほっとはしてられない。絵図が見つかり屋根の概要が解ったとはいえ復原するための資料は乏しい。同年代の建物の資料などを参考に軒反り、小屋組、屋根勾配、大棟等等・・・図面を描いては議論し、また直し、やっと良い感じになり、どうにか文化庁の現状変更会議に間に合った。
8月○日
軸部の組立をしながら軒廻りの原寸図作成。私の描いた規矩図を原寸に起して行くのだが大丈夫だろうか?と不安が時折よぎる。大工さんたち頼みます!!大塩八幡宮拝殿の柱は杉材の丸柱だが、正確には16角できちっとした丸柱に仕上がってはいなかった。後補材の柱は16角ではなく丸柱だったが今回の修理工事で16角に復原しました。(丸柱にするには四角の木材をまず四隅を落とし八角形にし、さらに16角またさらに32角にしてほぼ丸になり鑓鉋等で丸柱にします。)
9月○日
軸部の組立が完了し軒廻りの加工。原寸図に合わせて型板を作り、墨付け加工と作業が進んで行きます。建立当初の時代形式手法を尊重しつつ、わずかだが残されている当初材を調査研究して反りの曲線など慎重に進めて行きます。
9月○日
新補される茅負の加工などは実際に必要な寸法の4倍以上の材積の木材を反り上がりの曲線に合わせ削り取って行きます。そして、加工の終った部材をガスバーナーで焼付け、ワイヤーブラシなどでこすり、古材と違和感の無い様に合わせ、防腐処理をします。煤だらけになりながらの地道な作業が続きます。
10月○日
軸部の組立が完了し、いよいよ軒廻りの組立。修理前、約1mだった軒の出が1.8mになり、やわらかい曲線のついた茅負がのり徐々に作業が進んでいくと、様式手法からみて室町時代の建立と思われる、いにしえの姿が蘇ってきました。
12月○日
小屋組の加工組立。桧丸太の桔木(はねぎ)を一間間隔に入れ軒先の下がるのを防ぎ、母屋は一部残っていた当初材の痕跡から古代鎌の継ぎ手と丸ほぞの束で組上げた。(現在の鎌継ぎ手は先端が細くなっているが、古代鎌は細くならず四角になっている。ほぞも古いものは現在のように四角ではなく丸になっている。)ちなみに大塩八幡宮拝殿では入側桁にも古代鎌が使われ、当初の柱は丸ほぞでした。
1月○日
正月休みを上野原に帰省して武生に戻ると、暮とは一変して一面雪景色!それも雪景色どころの話ではなくあの56豪雪の真っ最中です。駅前のロータリーも辛うじて車が一方通行できる程度。アパートまでは本来7.8分ですが幹線道路以外は除雪がされていず、2mくらい雪が積もった道を、電線を目の前に見ながら、なんなんだよこれは!一週間前とぜんぜん違うじゃんなどと雪国の恐ろしさを実感しつつ、20分ほどかかってなんとかたどり着きました。
1月○日
まだ正月気分も抜けきらないのに7.8キロを歩いて現場まで。着いても素屋根の雪降ろし、そして膨大に落ちた雪の除雪!雪国はこれも仕事の内なんだね!
3月5日
大雪のため工程は多少遅れたが、いよいよ上棟式の開催。立柱式同様、古式に法った儀式で大塩八幡宮木遣りに合わせながら上棟の綱を引きクライマックス!大きな儀式が終了し工事も大詰め。柿(こけら)の葺き込みが楽しみだ!
4月○日
軒付を積上げ、柿の葺き込み。柿板は椹(さわら)材の幅4寸、長さ1尺、厚さ1分程度の割り板を1寸の葺き足で竹釘を打ちこみ葺き込んでいきます。柿板を葺き込んでいくスピードといったらすごいもので、竹釘を口に放りこみ尖ってない方を先にして1本ずつ出し、素早く打ち込み最後頭を潰すその技術の素晴らしさ!思わず見とれる私でした。
6月○日
屋根も完了し、素屋根の解体。室町時代のいにしえの姿が蘇り、今あきらかになります。離れて見ると、その優美さは間近に見ているのとはまた違って、柔らかな曲線が素晴らしいなとつくづく思える出来上がりです。復原修理という私達の仕事に、改めて自信と誇りを持ちました。
6月○日
1年半、大塩八幡宮拝殿と共に歩み、共に変わり、育てて頂きましたが、いよいよお別れです。名残惜しいのですが、ここに来ればいつでも逢えるよな!と次の現場、長崎は平戸へと・・・