旅の十八:「三井寺・長命寺/滋賀」
仕事や旅行の旅先に古建築があると、つい寄ってしまいます。チョットくらい遠回りでも磁石に引き寄せられるようにそっちに向いちゃいます。ちょっとだけ挨拶をって感じなんですが。その建物や空気と言うか雰囲気に漂う歴史の重みとでも言うのかな、なんかすごく感じるものがあります。建物とその育んだ環境、柱に触れ風化した縁に腰を降ろすと優しく大きな何かに包まれるような、そんな気がするんですね。
最近、よく言われる「癒し」って言うんですか?きっと、そんなものがあると思います。
そんな何かが少しでも、みなさんに伝わればいいな、と思って、私自身のそんな思い出と感想を綴ってみたいと思います。少し長いけど、写真と見比べながら、皆さんも「建築巡りの旅」の気分を味わってください。
で、私の「旅日記」、今回は滋賀県。
滋賀県琵琶湖の周辺には古建築が数多く残されています。京都や奈良の都に近いので素晴らしい建物が多く、そのうちのいくつかを何回かに分けてご紹介したいと思います。
まずは、湖西の大津市にある三井寺。
三井寺は正式には園城寺と言い、天台寺門宗の総本山です。ここは京都から近いのでもう何度も訪ねていますが、最近では5年前に訪れました。
私はここの塔頭の勧学院と光浄院の客殿がとても好きで、その落着いたすがすがしい雰囲気に浸りたく立ち寄ってしまいます。
大津は天智6年(667)天智天皇により飛鳥から遷都され、近江大津京が開かれました。その5年後、天智天皇が崩じたあと大友皇子が即位し弘文天皇となりましたが、天智天皇の弟の大海人皇子がこれを攻めて滅ぼした、所謂、壬申の乱によって天武天皇となりまた。天武天皇は再び都を飛鳥に移し、近江大津京はわずか5年で廃都となりました。
その後、弘文天皇の皇子の大友与多王は、父の霊を弔うため邸宅に寺を創建し、後に天武天皇から「園城」の勅額が贈られたのが園城寺のはじまりです。
三井寺と称されるのは、金堂の裏に霊泉があり、天智・天武・持統天皇の産湯に使われた泉であることから「御泉の寺=御井の寺」と呼ばれるようになり、やがて三井寺になったようです。
三井寺はその後、幾たびか兵火に見舞われ、現在の建物は豊臣、徳川氏の復興によるものです。
金堂は7間に7間(約21mx21m)の入母屋造り桧皮葺きの建物で、秀吉の北の政所が、桃山時代の慶長4年(1599)に再建したものです。1.7尺径の柱に二手先の組物を載せ、軒の出は約15尺(4.5m)ほどもある、がっしりと大きな和様の建物です。
勧学院客殿は7間に7間(約18mx15m)の入母屋造りこけら葺き。光浄院客殿は7間に6間(約15mx12m)の入母屋造りこけら葺きで、勧学院よりやや小振りの建物です。勧学院は金堂建立の翌年の慶長5年(1600)、光浄院はさらに翌年の慶長6年(1601)に建てられています。両建物とも良く似ており、約5寸(15cm)の柱にやや大きめの面を取り、床構えをもうけた書院造りです。書院造りは桃山時代の住宅建築の原型と考えられていおり、現代の住宅につながっていきます。部屋を仕切った建具や壁には障壁画が描かれ、狩野派の華麗な絵で彩られています。このような空間に浸っていると、いっとき時を忘れてしまいます。
他に大門、三重の塔、新羅善神堂などいくつもの国宝・重要文化財の建物が残されています。
機会がありましたら訪ねてみてください。
次は長命寺。湖東の近江八幡市にあります。
もう20年近く前に訪ねたのですが、ながーいながーい階段を登りつめたら、本堂が優しく向かえてくれて、なんとなく優しい雰囲気のお寺だったのを思い出します。いくつもの屋根が重なり合う風景、それは美しかったです。
長命寺は、推古27年(619)聖徳太子が自ら観音像を刻んで、本尊として祀ったのが創建とされています。
その後、永正13年(1516)兵火により諸堂のほとんどを焼失し、現在の建物は大永年間以降復興されたものです。
本堂は、7間に6間の入母屋造り桧皮葺きの建物で、大永4年(1524)に再建されました。
三井寺金堂と同じ和様の建物ですが、木割り細く、組物も出組と質素な様式になっており、木割と出組の組物の低さにより、押しつぶされたように感じる人もいるようですが、私はそうは思いません。高さのある石垣の基壇に建つ本堂は、翼を広げた鳥のように美しかったです。
他にも三仏堂、三重の塔、鐘楼、護摩堂など多くの文化財建造物が残されており、ぜひ観て頂きたいお寺です。
次回も引き続き滋賀のお寺をご紹介したいと思います。