旅の四十七:「外川家保存修理工事完成・後篇」
前回の「外川家住宅保存修理工事完成」、その後篇です。
前回は、軸部と屋根の修理工事の概要をご紹介しました。軸組と屋根が
しっかり固まったことによって建物の垂直・水平がほぼ整い、いよいよ外壁の作業になります。
外壁の一番外側を覆っていた波型鉄板などは解体工事の中で既に撤去していましたから、ここでは、まず、その下の壁(当初の壁)の調査を行いました。
主屋は波型鉄板の下に当初の杉板壁が残されていたのですが、離れ座敷の壁は物置が増築された際に張り替えられていたのに加え、それ以前にも改造された形跡があり、当初の壁は残されていませんでした。しかし調査の結果、下見板張りであることが判明。よって、杉板壁の張り方には二種類あったことが解りました。
基本的に、主屋は「竪羽目板張り」、離れ座敷は痕跡から類推して「下見板
張り」です。
具体的に説明します。
◎主屋の竪羽目板張り
1.当初材が現存している
2.柱・桁に板を挿し込む溝がついている
※柱・桁に板を挿し込む溝がついているということは、真壁(しんかべ:
柱などを見せてつくった壁)であり、板は竪に張り、貫に釘で止め、板と板の
継ぎ目には風雨の侵入を防ぐため目板を付ける「竪羽目板張り」だということになります。
◎離れ座敷の下見板張り
1.柱・桁に板を挿し込む溝がついていない
2.桁と貫に間柱を留めた釘穴と痕がある
※間柱(まばしら:柱と柱の間に入れる細い柱状の部材)が入ってるという
ことは、もともと大壁(おおかべ:柱などを覆ってつくった壁)であり、板は横に
張り、風雨の侵入を防ぐため下見張りで重ねて張り、押さえ縁で止める「下見板張り」だということになります。
主屋に残されていた羽目板は経年の風化で薄くなり、外が透けて見えるほどの網状と化していました。したがってほとんどを取り替えざるを得ず、
離れ座敷も新規材による復原となり、古色塗装を施しての整備となりました。
内部の壁は一部を除いて杉板の竪張りでした。内部は当然風化も少なく、
一部埋め木や剥ぎ木(はぎき)を行った程度です。内壁の外部廻りは外壁と
兼ねられた、いわゆる外壁の裏面現しです。内と外の仕切りが杉板一枚ですから、毎日真冬日の続く冬の吉田ではさぞかし寒いでしょう。実際工事中、
内部でも物凄く寒かった!
主屋の座敷、離れ座敷の上段の間は板壁に壁紙が貼られ、格式の高い部屋でした。壁紙の痛みが激しかったため、貼り替えを行いました。解体は慎重に行い、剥ぎ取った壁紙は発注者である富士吉田市博物館で調査を行って
います。下貼りに古文書などが使われていますので、貼り替えた年代や
修理の変遷などについての考察の参考にします。壁紙の復原には、
現状使われていたものと同様の柄でできた和紙の鳥の子紙(とりのこし)を
使い、下貼りも和紙を用い、従来に倣った工法で行いました。
また、壁の一部には土壁に漆喰と鼠漆喰(ねずみしっくい:漆喰に松煙墨などを混ぜて鼠色にした漆喰)が塗られており、その修復作業も並行して行い
ました。
建具や畳は、再用できるものは工場に持ち込んで修繕をし、新規に製作する畳は藁床を使用し従来に倣って製造しました。
このように全ての作業を江戸時代から受け継がれている工法で行い、
手間ひまをかけて、なんとか年度末には完成させ、無事引き渡しをすることができました。
今回の工事は昭和40年頃の姿に整備するということで、ほぼ現状維持の
状態で保全して行こうとするコンセプトで進められたわけですが、その成果は十分あげられたと思います。離れ座敷の建築年代も明治初期から江戸後期に遡るものと考えられ、富士御師の歴史を知る上で大変貴重な文化財である
ことが、なお一層確証されました。今後は展示施設の整備を行い、来年度には一般公開する予定のようです。多くの皆さんに訪れてもらい、この建物を通じて富士山信仰の文化と御師の生活を知って頂く。私たちの保存修理作業が、
そういう形で富士山の世界文化遺産登録に少しでも貢献できれば、嬉しく思います。