旅の七十四:「冨士御室浅間神社/富士河口湖町」
7月1日は富士山の山開き。今年は、例年に比べ残雪が多く、山頂への登頂はできないとの報道がありました。下界は、
毎日、蒸し暑い日が続きますが、富士山には、まだ、春が訪れていないんですね。
さて、その富士山への吉田口登山道には、以前に「旅の四」で紹介した禊所があります。そこから30分ほど登ったところに、
富士山中で、最も古い神社といわれている、冨士御室浅間
神社があります。
本殿は昭和49年に、維持管理上の問題から、富士河口湖町
勝山の里宮に移築され、その後、国の重要文化財に指定されました。今年、その本殿の現況図面作成のため、実測調査を
させて頂きました。そこで、今回は、この冨士御室浅間神社についてご紹介したいと思います。
冨士御室浅間神社は、飛鳥時代の文武天皇3年(699)創建
され、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祭神としています。平安時代の天徳2年(958)には、礼拝祭儀の利便性のため、河口湖畔に里宮を建立し、それにより、前社を本宮と
呼んでいます。
本宮は、吉田口登山道の2合目に鎮座し、約10ヘクタールの
神域がありますが、そこは、地理的には富士吉田市ではあり
ながらも、里宮のある富士河口湖町の飛び地となっています。
現在は、拝殿が残っており、既に朽ちかけていますが、
唐破風のついた割拝殿(わりはいでん:一般的に、拝殿は床を張りますが、中央を土間とし、通り抜けができる形式のもの)で、移築された本殿とほぼ同じ頃の、桃山時代から江戸初期の建立と考えられる、なかなか良い建物です。
本殿の移築時に、小さな一間社流れ造の御社がポツンと
置かれ、取り残されてしまった拝殿は、訪れる人も滅多になく、ただ朽ちて行くのを待っているかのようで、さびしい限りです。
かつては、富士講で賑わい、それ以前の中世には、修験道と
結びついて発展した時期もありました。また、富士山が噴火した折に、何度も焼けてしまうなど、紆余曲折を経て現在に至ってるようです。
次に里宮。河口湖畔南岸の富士河口湖町勝山に位置し、
戦国時代には武田信玄の崇敬も厚く、桜の見ごろの4月29日に行われる、流鏑馬祭りが有名です。
社殿は明治22年(1889)に再建されたもので、桁行5間、
梁間4間、茅葺型銅板葺入母屋造、向拝1間茅葺型銅板葺入母屋造の拝殿と、三間社流れ造銅板葺の本殿の間に、
切妻造銅板葺の弊殿を配した大きな建物です。
本宮より移築された本殿は、桃山時代の慶長17年(1612)に
徳川家の家臣で谷村藩初代藩主の鳥居成次によって建てられたものです。正面1間、背面2間、側面1間、入母屋造銅板葺、向拝1間軒唐破風付の建物で、黒漆や朱漆が施され、組物や蟇股には彩色が塗られており、内部は当初の彩色と考えられ
ます。細部に桃山時代の特徴を良く現し、また、木割が比較的大きくバランスのとれたよい建物です。本殿の前面にある
中門と翼廊は、移築時に新築したものです。
本殿の移築から35年。本宮拝殿の現況をみると、なぜ、本殿と一緒に移築しなかったのか?あるいは、移築しないで、
この地でなんとか維持管理をし、整備できなかったのかな?と、本殿のみの移転を選択した方法がなんとも悔やまれて
なりません。禊所のように朽ち果てる前に、富士山の世界遺産登録もあることですから、一日も早い、保存修理を望むところ
です。
これから、いよいよ夏山シーズンです。健康増進も兼ねて、
整備された吉田口登山道を登りながら、この忘れかけられた
富士山の文化遺産にも目を向けていただければ幸いです。