旅の四:1997年10月 「富士登山道禊所/富士吉田市」
しばらくのご無沙汰、申し訳ありません。商店街空き店舗対策の一大プロジェクト(!)の一環で、『たこ焼き』を焼いていたもので、旅日記の更新が遅れてしまいました(この詳細はまた後日・・・)。さて先日、富士山で噴気が発見されたとの報道がありました。場所はどこだろう?と調べたところ、富士山の北東1500m付近とのこと。そう言えば、ちょうど今頃の季節、そこから程遠くない登山道の『禊所』の調査をしたなあ・・・と懐かしく思い出し、今回の旅日記をしたためてみます。
その日はまず富士吉田の富士浅間神社でお参りをし、昔だったらトコトコ歩くか、馬にまたがって吉田口登山道を登るところを、私達は車で走りました。今では殆んどの人がスバルラインを通り、すれ違う人も車もいない登山道。中ノ茶屋を過ぎ、うっそうとする林の中を登る途中には、今では廃墟となった茶屋が、往時の賑やかさをしのばせていたりします。さらに登り続け、「馬返し」と言う乗り物の終点に到着し、そこから少し行った平坦地に、その『禊所』の朽ち果てた姿がありました。
富士信仰(富士講)の登山者は、先ほどの富士浅間神社でお参りをし、いよいよ富士山へ登り始める前にこの禊所でお祓いをしてから登ったそうです。しかし、昭和39年のスバルラインの開通とともにこの登山道を利用する人は激減し、衰退の一途を辿ることになりました。今回の調査は、この朽ち倒れた建物の倒壊直前の現状調査と復原調査です。写真の通り、回りには木や草も生い茂り、調査はまず、それらの伐採から始まりました。そして建物が崩れないよう配慮しながら外部の実測。それが終ったところで、解体しながらの実測。土に埋もれてる部材を掘り出しての、発掘調査さながらの、悪戦苦闘の実測調査でした。
朽ち倒れている写真からは分かりにくいでしょうが、この建物は桁行6間、梁間2間の主屋に、正面2間の入母屋の突出部が付き、その左側にさらに1間の下屋を、右側に1間半の下屋を付けています。主屋の右側には4尺の縁を廻らせ、背面には3間の社殿を設けていました。主屋は8畳間3室で構成され、中央が板の間、両脇が畳敷きです。正面に突き出している部分は土間と思われます。したがって、神社の拝殿のように、登山者は土間あるいは板の間でお祓い(禊ぎ)を受け、登山の安全を祈願し、身支度を整えるなどして山頂への参拝にそなえていたのだと、推察できました。
調査前、この様に倒れた建物を実測すると聞いた時は、どうなる事かと途方に暮れましたが、ひとつひとつ実測していくうちに建物の概要が見え、「昔はこんな感じだったんだろうな」と、おぼろげながらも全容が推測できてくると、当時の人々の富士信仰への思いも身近に感じられ、こうした調査もまた面白く、とてもいい経験になりました。