旅の四十三:「唐招提寺・平成大修理/奈良」
新年、おめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
とは言っても、もう1月も下旬になってしまいました。相変わらず慌ただしく、
お正月も大悲願寺観音堂の報告書の執筆に、育成会のスキー教室・廃品
回収・どんど焼きなどなど、あっという間に日が経ってしまいます。
さて、今回は昨年の暮れ、建築士の仲間と行った奈良の唐招提寺をご紹介
したいと思います。
皆さんもご存じのように、唐招提寺金堂は2000年より2010年までの10年間のプロジェクトで平成大修理が行われています。工事も後半に入り、小屋組の
組立と、いよいよ佳境の部分でした。
唐招提寺は唐の高僧鑑真によって天平宝字3年(759)開創された寺院で、
金堂はその後まもなく建立されたと言われています。当時、東大寺や薬師寺
など官寺が主に建てられるなかで、私寺として建てられた唐招提寺は、財政的にも大変苦労したことでしょう。そのためなのかは解りませんが、唐招提寺金堂は官寺のように重層(二重造り)の様式ではなく、単層の簡素な仏殿です。全面一間通りを吹き放しとした、新しい仏殿形式の軽快な天平建築とされて
いますが、現在の姿を知ってる人は、大きな屋根の重厚な外観を思い浮かべることでしょう。これは江戸時代元禄の改造で棟の高さを2.7m高くし、屋根を
急勾配にしたことによるものですが、そんな経緯に関連したことも含め、
今回の解体修理で新たな発見や事実が判明したのか?復原はどうする
のか?また、奈良時代の架構を目の当たりにできることなど、期待に胸を
膨らませて訪れた次第です。
実は平成の大修理で訪れるのは今回で2度目なんです。前回は建築士会で
約3年前の2004年2月に訪ねました。前回は建物の解体が終了し、基壇の
発掘調査を行っていました。1200年間在ったものが全て取り除かれたその
光景は不思議であり、もう二度と見ることはないだろうなと思いました。
保存小屋には直径2尺ほどの柱が横たわり、組み物の大斗など一つ一つの
パーツを手に取り間近に見ることができました。1200年もの時を経た部材に
今こうして触れると、槍鉋(やりがんな)などの道具で丹念に削られた痕の
感触の、なんとも言えない不思議なものだったことを思い出しながら、
素屋根の中へいざなわれました。
そこには懐かしささえ感じさせる、あの吹き放しの柱が整然と建ち並んで
いました。軒廻りの足場へ上がると小屋組には野垂木も打ち付けられ、
もう少し後だと野地板が張られ小屋組も見えなくなってしまうところでした。
工事主任の植田さんから説明を受け、工事での御苦労話などいろいろ伺う
ことができました。
今回の修理は、柱の内倒れが生じた構造変形が大きな要因で、構造変形
メカニズムの解明と構造補強の実施が目的のようです。したがって、
明治時代に行われた大修理による洋小屋のキングポストもそのままで、当然、元禄に変えられた屋根も、建立当初の緩い屋根には復原しなかったとのこと
でした。確かに天平に建立後、鎌倉に2回、室町、江戸元禄、明治と大規模な修理が施され、より良い方向へと改造を重ねて来た歴史があるわけですから、当然のことかもしれません。
そして、冒頭にも言いましたように、金堂は天平時代の建立とされていた
のですが、実は諸説があり、建立時期については謎が残されていました。
しかし、今回の修理で外された地垂木を年輪年代で測定した結果、その木は781年に伐採されたものと判明。建立はそれ以降の延暦年間の建立による
ことが確実となり、建立時期は、これまで考えられていた天平時代から、
奈良時代末期の延暦年間まで下がるという衝撃的な事実が判明した
ようです。しかし、奈良時代建立の金堂として唯一現存する建物には変わり
ありません。このように歴史的にも大変重要な、日本の、いや、世界の財産に間近に触れられたことに感動した一日でした。
今度は復原が完成した暁に、またゆっくりと訪ねたいと思います。