旅の八十一:「古谿荘 富士市」
昨年から文化財の調査の仕事を積極的にしている関係で、どうしても
遠距離に行くようになり、なかなか旅日記の更新が出来ず、お待ちかねの
皆さんには大変申し訳ありません。
さて、今回は、昨年、調査で訪ねた富士市にある近代和風建築の重要文化財『古谿荘』をご紹介したいと思います。
古谿荘は静岡県富士市富士川町岩淵に位置し、1万6千坪にも及ぶ敷地に940坪9棟の連なる建築群と回遊式日本庭園、そして温室・果樹園のある
西洋式庭園で構成されています。
明治39年に当時の宮内大臣・田中光顕伯爵が、富士を仰ぐ風光明媚・
気候温暖なこの地に、迎賓館とも思える別荘の建築に着手し、3年にもおよぶ工期を経て、明治42年完成しました。
9棟から成る古谿荘へは、旧東海道に面する大きな門を入り、紅葉や赤松の生い茂る坂道を登って、石造アーチ橋を潜ると、車寄せ付の正面玄関へと
アプローチされます。
玄関からは畳敷きの廊下が続き、緩やかな階段を上がると応接棟につながります。十字路状の渡り廊下を真直ぐ進むと、内蔵や八角堂洋館方面、
右は管理棟・板蔵方面、左は広間棟・大広間棟方面と続きます。
それでは、それぞれの建物の概略を説明します。
まずは玄関棟。磨き丸太の柱に入母屋造、栃葺(現在はその上にスレートを載せています)の屋根。窓は両引きの四方灯火型としています。
応接棟は、和室8畳に床の間の付いた応接室と、やはり和室8畳の次の間がセットになった部屋がいくつも構成され、部屋は全部で10室以上あります。
その北側奥には台所棟が続き、約30坪もの台所とかまど、浴室などで
構成されています。南側奥には内蔵があり、石造2階建の、寄棟造桟瓦葺。
さらに、西南の奥に八角堂の洋館。中央の八角形の応接室の周囲に廊下を配し、四方に4室の洋室が取り付いています。応接室の天井高は6mもあり、ギヤマンのシャンデリアが下がり、4面の上部壁には、無双窓が付き手元の
操作により換気が出来るようになっています。
次に、応接棟の十字路の廊下を右に進むと管理棟につながります。管理棟は文字通り建物の管理を行う部屋で、裏玄関などがあり、6室には書生さんが
暮らしていたようです。さらに奥には3階建の板蔵があります。
次は十字路の廊下を左に進んでみましょう。飾り棚に丸窓を組み込み、竹の化粧垂木を配した、渡り廊下を過ぎると広間棟につながります。富士見の間と称される部屋は、和室8畳間が2室に床の間・脇床を配した、書院風な造りの部屋が左右対称に2室。その周りを畳の廊下が廻る構成となっています。
広間棟の先には70坪の大広間棟。幅6間、奥行2間半の上座敷と
その周囲に幅2間の広縁。上座敷には中央に袋棚、左右に書院付の6畳の
床の間を配し、左右対称の形式としています。大広間棟の奥の廊下(広間棟とは反対側)には側面に仏壇や神棚が配されており、その先の居間棟が
つながります。居間棟には松の間・竹の間・梅の間と茶の湯のおもてなしが
できる数寄屋建築と、漆塗りすのこ板を敷いた浴室や更衣室で構成され、
その奥の八角堂とつながります。
これで一回りしたわけですが、それぞれの建物には中庭や庭園が面し、中でも広間棟と大広間棟からは富士山が眺められるレイアウトとなっております。
また、使用している材料も桧の四方柾無節の柱や3尺幅もある欅板など目を瞠るばかりです。設備においても照明器具はギヤマンで出来ており、
ドイツ製の分電盤を使用。トイレは5カ所もあり、水洗式で便器には銅板に
朱漆塗りを施し、洗面器も朱漆塗りとし、給水と給湯も完備しています。床下は地盤面より掘り下げ、高さ1m程度確保し、配管のメンテナンスのため隈なく
廻れるようにしてあります。
このような大豪邸は、明治から大正・昭和初期にかけて数多く建てられた、
日本建築の優れた技術で伝統的な和風と西洋風をうまく組み合わせた、
所謂、近代和風といわれる建物。もちろん古谿荘もその一つです。
田中光顕氏は迎賓館的な別荘として使用した後、大正3年から7年までここで隠居し、その後、昭和11年に講談社社長、野間清治氏に譲られ、現在は財団法人野間文化財団所有に変わり、維持管理されています。
残念ながら古谿荘は一般公開していませんが、時折、特別公開をしているようです。そんな折に訪ねた時の参考になれば幸いです。