旅の八(その2):2004年4月 「善教寺本堂/川崎」
前回ご紹介した川崎の善教寺。今回はその設計について、お話しします。
善教寺の沿革は天正17年(1589)6月に実誉吟哲上人が建立し、天保の頃、本堂は焼失し安政年間に現在の本堂が再建されました。その本堂も昭和36年に葺き替えられた瓦の過重量と老朽化により、今回の再建築することになりました。
この設計のお話を頂き、お寺の由緒などをお聞きした私は、今回の平成の再建は善教寺がこの地に建立された天正頃の様式に遡って再建したらいいのでは、と考えました。そこでそうお話ししたところご賛同頂き、設計を進めました。そして今や、柱が立ち梁を架け棟も上がり、その優姿が徐々に現れてきました。そこで善教寺本堂の各部位の特長についてご説明します。文章だけで説明するのは非常に難しいのですが、そこらへん、ご容赦ください。
まずは外観について
現本堂と再建中の本堂を見比べてください。瓦と銅板葺きの違いは勿論ですが、入母屋屋根の妻飾りの大きさが小さいです。これは建物の本体である身舎に切妻屋根を架け、その周囲に庇を廻らせた、所謂、三間四面の古来の入母屋発生の流れによるもので、善教寺創建の中世では側回り(建物の外側の外部との境の柱通り)より内側に妻の立所があります。現本堂のように近世以降は側回りより外側に妻の立所が出てきています。妻の立所が外に出ると当然妻飾りは大きくなり装飾的で豪壮にはなりますが、しなやかさや優美さはなくなります。
細部仕様については、まず斗。善教寺本堂では出三斗と言って平三斗(大斗に肘木を置き斗を三個並べる)に直交して肘木を前に出し斗を置く組物を採用しました。肘木の曲線や斗繰そして六枝掛(斗の巾に合せて垂木が二本並び三斗で垂木が六本並ぶ割付)による枝割など、木割りも中世の様式となっております。次に垂木は二軒(垂木が地垂木・飛檐垂木と二重になっている)で六枝掛による繁垂木(垂木と垂木の間が垂木の高さの割付)となっており、地垂木と飛檐垂木は共に先端に反りを付け、地垂木の上端は下端より反りを強くし、最先端で高さを増す反り増しにより力強さを、飛檐垂木は逆に上端より下端の反りを強くし、軒先の軽快感と柔らかさを演出しています。また、斗上部の丸桁(桁)を建物の四隅で高さを増し、軒の反り上がりを側回りより内側から反り始めています。(近世以降は側回りより反り始めています)こうする事によって軒廻りの反りは建物の内側より緩やかに反り上がり、さらに優美さを増します。
次に構造形式について
基礎の上に土台を廻らし(本来は土台は無いのですが建築基準法で必要な為入れています)柱を立て柱と柱を腰貫・内法貫・頭貫で繋ぎ、柱間の飛んでる間には、虹梁を架け、側回りは更に切目長押・内法長押で軸部を固めています。柱上部は上記の斗を載せ屋根の重量を均等に柱に伝え、小屋組は大きなケヤキ梁を縦横に配し、深い軒を檜丸太の桔木で下がらないよう押え、小屋束は貫で繋ぎ組上げています。また、これらの部材の中で構造上特に重要な柱・虹梁・梁・斗などは全てケヤキ材を使用し耐久性を高めています。
この様に中世の様式によって再建されている善教寺本堂。足場が外れた時には、ご本尊の阿弥陀様ように、優美でしなやかな落着いた姿が現れるはずです。その姿は、いずれまた、ご紹介したいと思います。