旅の四十五:「奈良研修旅行ファイナル!」
我が家の桜は満開となり、春の訪れを感じる今日この頃。娘の卒業式も無事終り、ほっと一息つきたいところなんですが、まだ仕事に追われまくってます。でも、旅日記の更新もしなければならないので、気分転換に書きたいと
思います(遅くなってすみません)。
今回も前回、前々回に引き続き、昨年の暮れ奈良に行った時に、道すがら
訪ねたお寺などのご紹介、その最終篇です。
●まずは宇治の平等院。皆さんもよくご存じの平等院は平安時代初期、
貴族の別荘だったものを寺に改めたのが始まりで、天喜元年(1053)浄土信仰による寝殿造りの阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立されました。鳳凰堂は一見一棟に見えますが、よく観察すればわかるように、実は四棟から構成されています。本尊の阿弥陀如来が安置されている中央部は中堂(ちゅうどう)、中堂の
左右に鳳凰が翼を広げたように建っているのが翼廊(よくろう)、そして鳳凰の尾の部分にあたるのが中堂の背後に延びる尾廊(びろう)と呼ばれています。
構造形式は中堂が桁行三間、梁間二間、裳腰(もこし)付、入母屋造り
本瓦葺で、裳腰が薬師寺金堂のように中央部を一段高くした形式。そのため外部からも(池の手前)本尊のお顔が拝めるようになっています。両翼廊は
桁行八間、梁間一間、廊一重二階、切妻造り本瓦葺。隅楼二重三階、
宝形造り本瓦葺。尾廊は桁行七間、梁間一間、一重切妻造り本瓦葺です。
寝殿造りとは平安時代に発達した住宅形式で、その代表的なものが、
以前にも紹介した宮島の厳島神社です。極楽浄土信仰の雅やかな、
ほんとに優雅な建物です。
●次に平等院より宇治川を挟んで対岸にある宇治上神社。ここは以前、旅の三十三「住宅風仏堂建築」で少し触れましたように、拝殿が鎌倉時代前期の
建物で宇治離宮を移築したといわれている寝殿造りの様式を取り入れた建物です。本殿は平安時代後期の様式で、最古の神社建築の流れ造。近年行った年輪年代測定で康平3年(1060)の建立と判明され、平等院鳳凰堂建立7年後であることから、平等院の鎮守として建てられたのではないかと思われて
ます。
流れ造の本殿は三社からなり、その本殿を覆うように、五間社流れ造の
建物が囲む特異な形式です。したがって構造形式は桁行五間、梁間三間、
流れ造桧皮葺、内殿三社が各一間社流れ造となります。内殿は中央と左右の社殿で大きさが異なり、中央の間口が左右より幾分狭く、蟇股(かえるまた)は中央社にはなく両脇社のみです。その蟇股の様式も若干異なり、右社の方が少し古い形式で時間差が多少あり、順次建てられたものと考えられます。
また、内殿左右社の、それぞれ外部側の壁は、覆い屋的な五間社流れ造の壁と同一であり、さらに内殿の向拝柱と五間社正面の柱も同一で、当前、
内殿の※打越垂木(うちこしだるき)も五間社と同一となっています。しかし、
よく見ると中央社だけは、地垂木の上に茅負が載り、破風が付き屋根の軒付も付いて、その上部に打越垂木が置かれています。このようなことから、
中央社を覆うように左右社、向拝を五間社流れ造の本殿としたものと考えられ、他には見られない形式の建物です。このように極稀な建物が神社としては最も古いんですから、式年造替されている建物は別として、昔は自由な発想で造営されていたことが窺えます。
●最後に訪ねたのが一休さんでおなじみの酬恩庵一休寺。酬恩庵は奈良に程近い京田辺市にある、一休禅師が復興したお寺です。師である大応国師が建てた妙勝寺が兵火で焼かれ荒廃していたのを痛んで晩年徐々に修復し、
師の恩に報いたことから酬恩庵と名付けたようです。本堂は室町時代の永正3年(1506)の建立で、桁行三間、梁間三間、一重入母屋造桧皮葺の純唐様の三間堂です。京都・奈良地方の唐様建築としては最古の建築。方丈・庫裏は江戸時代の慶安3年(1650)の建立で、方丈が入母屋造桧皮葺で、庫裏は切妻造本瓦葺のいずれも禅宗様建築です。
このようにして1泊2日の奈良研修旅行は天平奈良時代から平安・鎌倉・
室町・江戸、そして現代の最新技術を駆使した大極殿まで様々な建物を見てきました。皆様もこの中の一つでも訪ねる機会がありましたら、見学でのちょっとした参考にして頂ければうれしいです。
※打越垂木とは向拝に架かる垂木で、身舎の地垂木の上に架かる飛檐垂木(ひえんだるき)が伸び向拝を越えて架かる垂木。