旅の八十二:「中島新邸 太田市」
年度替わりは総会やら何やらと、毎年、目まぐるしい忙しさで、あっという間に時間が経ってしまいます。調査で訪ねていた
身延山久遠寺の見事なしだれ桜も既に散り、山は新緑に
包まれ春うららかな季節になりました。
さて、今回も、前回の『古谿荘』に続いての近代和風建築、
『中島新邸』をご紹介したいと思います。
中島新邸は群馬県太田市押切町に位置し、1万400㎡の敷地に1100㎡もの総床面積を誇る木造平屋建(一部2階建)。
玄関棟や客室棟・居間棟・食堂棟などを回廊式に中庭を望む
ように巡らせて、建ち並んでいます。
昭和2年に着工し、同6年に竣工したこの建築は、日本の
飛行機王と言われた中島飛行機の創設者中島知久平が
両親のために建てたもので、中島知久平の生家である旧邸も近くに存在しているようです。
中島知久平は明治17年に生まれ、海軍機関学校を経て海軍に仕官し、アメリカで日本人3人目の飛行士免状を取得しました。その後、海軍を退官し、飛行機研究所を設立
(後に中島飛行機と改称)。日本最初の民間航空機製作
会社の設立により、飛行機の国産化に大きく貢献し、
第二次世界大戦では「隼」や「疾風」の開発・生産を行い
ましたが、終戦後、中島飛行機は解体され、現在は富士
重工業(SUBARU)やIHI(旧石川島播磨重工)など多くの
会社がその技術の継承をしています。また、中島新邸の
上棟が行われた昭和5年には、彼は衆議院総選挙に出馬し、初当選。その後、政治家としても活躍し、鉄道大臣などを
歴任したようです。
恐らく、政治家への志もあって、新邸の計画をし、
当時の金額で100万円、現在の貨幣価値に換算すると
50億円にもおよぶ豪邸の新築を行ったのではないでしょうか?政界に進出した折りに、大物政治家と肩を並べられるような
豪邸が必要だったのかも知れません。
それでは、建物の紹介をしたいと思います。敷地の周囲は、
鉄筋コンクリート造の築地塀で囲まれ、西側に大きな表門と
門衛所があります。表門の構造形式は、薬医門、屋根は桟瓦葺き、総欅造りの豪華さで、扉はしかも一枚板で出来て
います。表門から中に入ると、大きな主屋があり、唐破風の
屋根が突き出しています。ここが玄関棟の車寄。そして、玄関・ホールと続きます。ここは、来客用の玄関で、住宅用の
玄関は、車寄の左側に、内玄関が別に設けられています。
ホールの右隣に、応接間1・2と続き、奥には回廊式の廊下が廻り中庭を望めます。応接間2の先には、戦後、進駐軍が
使ってたといわれる、バー・ダンスホールが増築されており、
その奥の客室棟へと続きます。客室棟は、28畳の客間と
21畳の次の間、その周りには広縁が付き、さらに奥の
居間棟に続きます。居間棟の1階は、知久平氏の両親の
部屋と仏間。2階が知久平氏の座敷と次の間。その奥に
2階建の土蔵があります。居間棟に続いて脱衣室・浴室などを
挟み、食堂棟に繋がります。食堂棟には茶の間・食堂・
厨房などがあり、女中部屋・書生部屋・事務室・勝手口などを
介して玄関棟へと繋がり、総床面積は冒頭にも記したように
約330坪にもおよびます。
外観は、基本的に和風の造りで、屋根は入母屋造の
日本瓦葺きに銅板平葺きを併用し、外壁は腰に杉板下見
板張り、上部は漆喰塗としています。内装は、床に
フローリングとジュータン・畳敷き。壁はクロス貼りを基本とし、天井は、格天井や折上格天井を多用しています。玄関棟の
応接間などは洋風にして暖炉を設けたり、調度品も豪華な造り付け。窓は上げ下げ窓で、ガラス戸の外に雨戸を設けて、
収納できるように工夫してあるなど、いろんな面で大変手の
込んだ造りとなっています。
現在の状態は、何年も使用していないようで、かなり荒れて
おり、雨漏りもいたるところで確認できるなど、極めてひどい
状況です。今後、保存の計画もあるようですので、いつの日か整備された、中島新邸の公開が望まれます。