旅の十:「日本最古の神明造り 仁科神明宮/大町」
今回も前回に引き続き長野の建築を紹介します。
約26~7年前の秋、私は深夜の登山列車に乗り込みました。松本行きのその列車は北アルプスを目指す登山者でごった返していました。辛うじて座る事ができた列車は漆黒の闇を直走り朝8時頃松本に着き、大糸線で安曇野を車窓から眺めながらトコトコ北上し、安曇沓掛駅に降り立ちました。
北アルプスから流れる高瀬川を渡り、山の麓に杉がうっそうと繁る中に仁科神明宮は鎮座していました。ここは昔、皇大神宮(伊勢神宮)の領地であった仁科御厨の地に、伊勢神宮の分社を勧請したのがはじまりと伝えられています。
社殿は、本殿・中門・釣屋からなり、その前面に拝殿、神門が建てられています。その社殿は寛永13年(1636)の造営で、棟札が永和2年以降、寛永13年まで全て残されており、創祀以来21年ごとに式年造営が行われていたようです。(主要な神社では、式年遷宮という定期的な造営が行われてきました。今でも伊勢神宮では、20年ごとに式年遷宮による造営が行われています。諏訪大社の式年造営御柱祭りも有名です。)
本殿は桁行三間、梁間二間、神明造りで、日本最古の神明造りです。屋根は桧皮葺きで、伊勢神宮のような茅葺きではありませんでした。私は当然のように茅葺きのイメージしか持っていませんでしたので、その衝撃はとても大きく、エッと絶句するようでした。しかし、眺めているうちに、その上品な佇まい、仁科神明宮と言う名前の響きとマッチする雰囲気に魅せられてしまいました。式年造営が行われていた本殿は、古式な構造手法や神明造りの原型を良く残しており、その様式は、破風板をそのまま延ばして千木とし、棟木を受け、鰹木で押えています。また、千木は水平に削り、鰹木は6本で偶数としているのは、神明宮が天照皇大神の女神を祀っているからです。男神を祀っている場合は、千木は垂直に削り鰹木は奇数となります。(例外もあります)その他にも随所に古代の手法が使われていました。
中門は四脚門の切妻造り桧皮葺きで、破風板・千木・鰹木などは本殿同様、古式な構造手法で造られています。
釣屋は本殿と中門の間に架けられた屋根のことで、本殿屋根と中門屋根に桁・棟木を架け、切妻造り桧皮葺きの屋根を架けています。
仁科神明宮をじっくり見学した後、また、澄んだ空気の安曇野をせっせと歩き、今度は盛蓮寺観音堂。室町時代中期の文明2年(1470)の建立で、桁行三間、梁間三間、寄棟造、茅葺形銅板葺きの鎌倉時代の様式を残したお堂です。組物は平三斗で一軒繁垂木。垂木の下端には縁束が延びた軒支柱が立ち、舟肘木に桁を廻らせています。この軒支柱が建物をやぼったくさせていますが、屋根の重みで仕方ないのかな?なんて思ったのを想い出しました。
次に大糸線を戻って有明駅で降り、高瀬川とは逆の西へ向い目指すのは、曽根原家住宅。建物は、桁行18.2m、梁間15.5m平屋建て、切妻造、板葺き石置き屋根で、本棟造りの原型とみられています。しかし、本棟造りの象徴でもあるような雀踊りが付いておらず、いつ頃から付けるようになったんだろうな?一時期、雀踊りも付いていたようなので、今の本棟造りに至る原型なんだろうなと思いました。また、石置き屋根がこの安曇野の風景によーく似合ってるなと感じたのも覚えています。曽根原家は、仁科神明宮をおまもりしていた仁科氏の元家臣で、その後、江戸時代中頃に有明に移り住んだ時に建立したと思われています。
こうして一日中歩き回り、また列車に乗り、夜中遅くようやく家にたどり着きました。
「国宝で日本最古の神明造り」の言葉に引き寄せられるように訪れた仁科神明宮。恐らく伊勢神宮の遷宮で払下げられた本殿なのかなと勝手に想像していた私は、伊勢神宮とはまったく違う姿の、この仁科神明宮との衝撃的な出会いによって、この後二度、高山などの帰りすがら、ちょっと会いたくなってわざわざ立ち寄ってしまいました。