旅の百七:「本遠寺本堂 身延町」
今回は、久しぶりに訪ねた山梨県身延町の本遠寺を
ご紹介します。
本遠寺は、旅の五十三で既に紹介しましたが、その際は修理工事中に訪ねた見学会の様子でした。今回は修理工事も
終わり見事に復原された御堂を参拝させて頂きましたので、
そのことを。
本遠寺について、もう少し詳しく説明します。
創建は慶長13年(1608)。この年、徳川家康の側室
お萬の方が、家康による弾圧を受けた日遠上人(にちおん
しょうにん)を隠棲させ、庵を開いたのが始まりとされています。その日遠上人は、6歳の時、本満寺12世日重に師事し、27歳で飯高壇林(※旅の3参照)の講主、慶長9年32歳で久遠寺
22世となりました。この頃、お萬の方が師事して法華信仰に
入り、帰依されたようです。草庵を開いた後、寛永3年
(1626)に、お萬の方の寄進により堂宇が建立され、
本遠寺として寺院化し、慶安3年(1650)には、お萬の方の
実子、紀州徳川頼宣公と水戸徳川頼房公によって大伽藍が
整備されましたが、慶応3年(1867)の火災で、本堂と
鐘楼堂は残したものの、他全てを消失してしまいました。
お萬さまは、熱烈な法華信者で、家康の死去した後、
髪を下し養珠院と号し、元和5年(1619)家康の三回忌を
身延山で行い、法華経一万部読誦の大法要を催して、
七面山へ初登頂。女人禁制だった七面山への登拝信仰の道を開いた、テレビでおなじみの水戸光圀公の祖母です。
日遠上人とお萬さまの墓所が本堂の裏にあるようです。
それでは、復原された本堂の説明をします。慶安3年に紀州
徳川家が造営した、桁行5間・梁間7間、向拝1間、入母屋造で、妻飾は二重虹梁大瓶束、軒廻りに二軒繁垂木、屋根は
桧皮葺の流麗な本堂です。柱には粽を付け、その上に台輪を廻し、組物は禅宗様の二手先に尾垂木を付け詰組(つめぐみ:柱上に載せる組物の間に付ける組物)にするなど禅宗様式を随所に採り入れています。木柄も太く豪壮な意匠は、資材から大工や職人など、ほとんどを紀州から船で運び込んで
造営されたと言われているように、高度な技術力が窺えます。
次に、鐘楼堂。ここも本堂と同じ慶安3年の造営で、桁行3間・
梁間2間の楼造り、妻飾に妻虹梁大瓶束、軒廻りが
二軒繁垂木、屋根は桧皮葺です。組物は、禅宗様の
三手先で、腰組も三手先に繰形肘木を付け、高欄は逆蓮
(ぎゃくれん)と握蓮(にぎりはす)とした禅宗様式の鐘楼堂です。本堂と同様に紀州の大工が施工しており、1層の
四方転びの柱や、細部の手法、彫刻のデザインなど、
地方ではあまり見られない凝った造りの素晴らしい建物です。
このように、江戸初期の華やかな時代の、豪壮な建築、
本遠寺。しだれ桜が咲くころ、お萬さまを偲びながら、
訪ねてみては如何でしょう?
今回、本遠寺を紹介していたら、そのルーツでもある紀州に、
また行ってみたくなりました。でも、なかなか行けないので、
改めて思い出す意味でも、今度は、だいぶ以前に訪ねた
紀州の建物をご紹介したいと思います。